もうひとつのあしあと。
たわごと
自分しかわかんないです(´・ω・`)いや自分もわからないかも。内容的に。
私は絵を描くのが好きだと人によくいうが、
実際絵というよりは物語を描きたい、もっと言うならば
「しあわせ」な風景を切り取りたいだけなのかもしれないと最近思う。
最近ツイッターで流れてきたイラストの相場といったところで
小説の表紙が10万すると書いてあった。
私は迷わずそれを高いと思った。
しかし、同僚から言われた
「小説は何千万と刷られるため、10万では安いくらいではないか」
なるほど、と思った、それは正しいと思った。
しかし私はそれでも高いと思った。
それは私は絵を仕事にしたいと思わないからだと悟った。
絵=趣味の図式がようやっと確定したのがつい最近だというのがおかしいが
前から思っていたおぼろげなものがようやっと形を得たのかなと思った。
ならば私は何のために絵を描いているのだろう。
自己表現なのは間違いない。
だがその表現の指す意味とはと考える。
昔は描きたいから描いていた。けれど描きたい気持ちは
沸いては消える泡のようなもので、ノリがいい時に描けるものだった。
創作もやっていた。それはとても狭いものだったけれど充実していた
二次創作をやっていた。本格的な創作をしはじめたのはこの頃だ。
コナン、ジオコン、などなどいろいろなものを描いた。
何故描くのだろう。描きたいからだ。
では何を描きたいのだろう。
自分が見たい風景を描きたいのだと思った。
でも画力がついていかないので、小説が主だった。
物語を描きたいのだろうか、と思った。
シンフォニアにはまった。
すると少し違う方向に向かい始めた。
漫画を描き始めた。描きたい話を
少しずつ少しずつ描いていった。
すると少しずつ量が増え始めていった。
なんとなく、思った。これが一番いいのかもしれない。と
今一番自分の身の丈にあっているのかもしれない。
一番、自分が描きたいものがかけているのかもしれない。
人の目は若干気にするけれど、基本的には気にせずに
自由に、自由に描いていける。
物語を、そして現実ではありえない幸せな話を。
いや、現実ではありえているのだ。
ただ、苦しみ、悲しみ、怒りの中に光る幸せを切り取って感じることはとても難しい。
幸せを感じたかと思えば一瞬のうちに苦しみへと変貌する。
時が流れるからこそ苦しみも流れるのだが同じように幸せも流れる。
一瞬一瞬を切り取るのはきわめて難しい。
尚さら「幸せ」という気持ちを、感情を、止めておくのは難しい。
だからこそ、
幸せだという時間を止めてゆっくり描き出すことをすることが、
それが、一番私がやりたかったことなのかもしれない。
それが、この、ろくでもない現実世界を生き抜く、唯一の心の支えなのかもしれない。